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Una casa con vista al mar 海の見える家

ベネズエラ映画 (2001)

レアンドロ・アルべロ(Leandro Arvelo)が、スベインの名優イマノル・アリアス(Imanol Arias)の息子サンティアゴを演じる評価の高い映画。2002年のアカデミー外国語映画賞にベネズエラ代表としてエントリーされた(ノミネートは逃す)他、10の国際映画祭で受賞している。以前紹介した2010年のスペイン映画『エントレロボス/狼とともに』では、1954年の小作農の苛酷な状態が描かれていたが、この映画の設定は1948年。やはり、貧しい小作農と、村を支配するドンとの厳しいやりとりを描いている。ほぼ同年の、似たような小作とドンの関係は、ベネズエラがスペイン系であることを考えると、スペインに固有のものかとも思ってしまう。2016年12月11日の毎日新聞の解説では、コロンビア革命軍の背景として、「1957年、貧農の家に生まれ、両親たちの土地解放運動は地主が雇った右派民兵につぶされ、6歳で親と家をなくした」という事例が書かれている。状況は異なるが、権力を握った地主=ドンの横暴は2つの映画と共通している。さて、映画は、『海の見える家』という題名だが、舞台となるのはアンデス山脈。ベネズエラと言えばチャベスとマドゥロくらいしか知らなかったので、南米大陸の北端の国にアンデス山脈があるとは信じられなかったが、地図を見ると確かにコロンビアから300キロ以上続いている。しかも、最高峰のPico Bolívarは標高4978メートルもあると知って二度びっくり。確かに、北緯8度という熱帯にありながら積雪シーンも出てくるので、アロンソ父子が住んでいる辺りの標高が相当高いことが分かる。父の「ムークンピース(Mucumpis)ですら小麦は育つ」という台詞があるので、2人が住んでいるのはムークンピース〔標高約2400メートル〕かもしれない。そこから海までの距離は、近くにあるマラカイボ湖〔カリブ海につながる塩湖で、琵琶湖の約20倍〕までなら直線距離で僅か35キロしかない〔カリブ海までだと225キロ〕。サンティアゴは、死んだばかりの母の写真が、浜辺で撮影されていたことから、まだ見ぬ海に想いを寄せる。そして、村にやってきた出前の写真屋〔絵に描いた背景をバックに、家族の記念写真を撮影する〕の背景幕の1つに、海に浮かぶ小さな帆船を描いたものがあるのを見て、木片を集めて空想の舟を野原に作る。しかし、これは、この映画の唯一の明るい側面。悲劇は、サンティアゴとドンの息子たちの確執〔仕掛けたのはドンの息子たち〕に、ドン自らが乗り出して、サンティアゴを肉体的、精神的に傷付けたことで幕を開ける。父の復讐は素早く極端で、待ち伏せしてドンを大きなナイフで刺す。父は直ちに逮捕され、1人残されたサンティアゴに、救い手のさしのべる村人はなく、逮捕された父に対し署長は冷たい。サンティアゴの「舟」を見た写真屋の好意がこの危機を救い、親子が海に脱出したであろうことを示唆して映画は終わる。単純明快だが心に残る映画だ。

1948年当時のアンデス山中のひなびた村に住む父と子。2人は、大事な妻、大事な母を亡くし、その埋葬を終えたところだ。家に帰った父は、「お前は、きっと勇気ある男になるだろう」と話す。そして、結婚する前に撮られた亡き妻の写真を息子サンティアゴに渡してやる。そこには、サンティアゴが見たこともないものが映っていた。父によれば、それは「海」。この漠然とした大きなものにサンティアゴは憧れる。そして、父から「船」という言葉を聞くと、船にも関心をもつ。こうした仲の良い父子に波乱が生じるきっかけは、サンティアゴの靴が壊れてしまったこと。しかし、父には靴を買ってやるお金がない。そこで地主に頼み込んで買って貰うことに。ここで、新たな問題が生まれる。地主のひねくれた長男の存在と、誰をも恐れないサンティアゴの自由な精神との衝突だ。結果的に、この2人の確執は、村の祭りの際の喧嘩を生み、先に仕掛けたのは長男だったが、先に長男を殴ってしまったサンティアゴは地主から罵声を浴びせられ、一旦もらった靴まで取り上げられる。その際、サンティアゴが強く抵抗したことで、長男たちから暴行を受け、それが父を怒らせる。父は、息子にとって、「善良だが臆病な父」であるべきか、「殺人を犯した父」であるべきかを考えた末、後者になることを選び、地主をナイフで刺し逮捕されてしまう。それは、逮捕を覚悟した父が、息子への思い出にと、「海に浮かぶ船の絵」の前で、記念写真を撮影してもらっている時だった。父の息子への強い思いは、一緒にいた写真屋をも感動させる。しかし、地主を刺した男の息子に対し、隣人は辛く当たり、せっかく刈入れの時期を迎えた小麦も放置される。悲しい環境に苦しむサンティアゴは、警察に収監されている父にこっそり合図したり、憧れの「船」を野原に作ることでうっぷんを晴らしていた。特に、後者は、写真屋にサンティアゴへの好意を募らせる結果となった。父が刺した地主は、死を免れ、警察署長と結託して、①サンティアゴの謝罪と牛の譲渡と引き換えに釈放されるか、②殺人罪での起訴か、の二者択一を迫る。しかし、父は、息子に二度と嫌な思いをさせないと心に誓っていたので、妥協を拒む。一旦、父親を地区の刑務所に送れば、地主が軽傷だったことから釈放される可能性もある。そこで署長と地主は、父を写真屋のトラックに乗せて護送中に、部下に「誤って」殺害させるよう手配する。この陰謀は、幸い、父とサンティアゴに好意を寄せる写真屋によって未然に阻まれ、父は自由の身となった。父とサンティアゴにとって、逃げていく先は、憧れの「海」の見える地でしかあり得なかった。

レアンドロ・アルべロはベネズエラの俳優。子役時代の出演は3本で、主演はこれ1本。出演時の年齢は、http://cualeselrollo.comの2016年の記事でようやく14歳と判明した。特徴的な鋭い瞳は、記事に載っている29歳の写真でも、全く変わっていない。役柄にぴったりの少年だ。監督のAlberto Arveloと同姓なので最初は息子かと思ったが、記事には「ベネズエラの監督Alberto Arvelo」と書かれているので、偶然の一致。


あらすじ

映画の冒頭、霧のかかったアルプス山中。スコップで土を掘る音が聞こえる。深く掘った穴の中に埋葬された木の棺に向かって男が土をかけている。そして、ほぼ埋め終わる。傍らに、太い枝で作った墓標としての十字架を持った少年がいる。十字架を土に挿し、石で叩いて埋め込む(1枚目の写真)、男が根元を石で補強する。墓の前に並んで立つ2人。父、トマス・アロンソと14歳のサンティアゴだ。父は胸に手をやり、天を仰ぎ見る。息子は父の顔を見る。顔中が土で汚れ、涙の跡が残る(2枚目の写真)。父は帽子を被り立ち去る〔この帽子、バケツ帽とコーン・フード帽を足して2で割ったような独特の形をしているが、現地語名は分からなかった〔映画の中では “sombrero” としか言っていない〕。この村では誰でも被り、特に父の帽子は映画の中で重要な役割を果たす〕。ここで、ようやく映画のタイトルが表示される。因みに、ここまで台詞は一切ない。
  
  

その日の夜。小さなランプの光しかない暗い部屋で、父子が一緒にテーブルについている。「神のご意思だ。すべてが神のものだから、神は、望む時に、望むものをお召しになる」と言うと、異物が混入した酒をラッパ飲みする。「公平でないような気もするが、神のなさることに、とやかく言うことはできない」。父はさらに続ける。「トマス・アロンソは、牛のことしか知らず、妻を亡くしたばかりだが、息子にこう言いたい。神の正義など信じていないと」(1枚目の写真)。「マリアは死ぬと知っていた。だから、金曜の午後に 俺に約束させた。お前に男の勇気を教えろと」「だが、俺に何が教えられる? 家の直し方と、牛の御(ぎょ)し方しか知らんような 俺のような農民に、いったい何が?」「お前は、きっと勇気ある男になるだろう、サンティアゴ。お前一人の力でな〔con o sin mi ayuda〕」。そう言うと、息子の髪を撫でてやる(2枚目の写真)。
  
  

翌朝、父が窓の板を開けて〔ガラスのような高価なものはない〕、「サンティアゴ、起きろ」と声をかける。「汗まみれじゃないか」。そして、ベッドに座らせる。「牛乳入りのコーヒー〔1948年の貧しい山の農家で、カフェ・オ・レと訳すのも変なので〕、飲むか?」。サンティアゴは、父の手にしたカップを受け取って飲む。父は、その間に、大事にとっておいた1枚の写真を取り出し、「18の時の母さんだ」と言って、サンティアゴに見せる。そして、写真を手に取らせ、「母さんだぞ。クリスマスの時の。俺達が知り合う前だ」。若くて別人のようなので、サンティアゴの顔がほころぶ(1枚目の写真)。父は、自分のカップを飲んでみて、「俺の入れるコーヒーは不味いな。嫌なら、飲まんでもいいぞ」と言う。サンティアゴは、微笑んだまま、カップを下に置くので、きっと不味かったのだろう。「持ってろ。お前にやる」。そう言われて、もう一度写真を見る。写真は、浜辺で撮ったもので、バックに海が映っている(2枚目の写真)。海を見たことがないサンティアゴは、「母さんの後ろにあるもの、何?」と尋ねる。映画では、その場面での返答はなく、父子揃っての山の斜面での耕作シーンへと移行する。牛2頭で木の鋤を牽かせ、石の混じった畑を耕していく厳しい作業だ(3枚目の写真)。
  
  
  

大きな木の下で、休息を取っている父子。サンティアゴが父に、「トマス、海って どんなもの?」と質問する。「他の、どんなものとも違う。全く別の世界だ」。「分からないよ」。「こことは全く違う。荒地もないし、家もない。木もない」(1枚目の写真)「いや、あるんだが、とっても少なく、小さく、こことは全然違う」〔サンゴか海草のことを言っているのだろうか?〕。そして、今座っている大きな木を見上げ、「これは本物の巨大な木だ。こんなものは海にはない」と付け加える。この時、画面が変わり、1台の真っ赤なトラックが、こんな山奥まで入ってくる。映画のキーマンになる写真屋の車だ。トラックは、写真屋の飲酒運転のため、木にぶつかって停まる。画面は再び父子に戻り、サンティアゴがボロボロになった革靴を脱ぐと、指が血だらけになっている。「足をどうした?」。「靴が壊れちゃった」。「早く言わんか。父さんは、お前に裸足で歩き回って欲しくない」(2枚目の写真、矢印の先が痛んだ足)。しかし、サンティアゴの興味は海へと戻る。「トマス、もし家がないんなら、海じゃ、みんなどこに住んでるの?」。「海には誰も住んどらん、サンティ。うんと遠いし、危険だ。誰も海には住めん」〔父も、海を見たことがないに違いない〕。「鯨もいるぞ」。「くじら?」。「ああ、海にはいっぱい鯨がいる。とっても獰猛な動物だ。預言者ヨナの話を知らんのか? ヨナは鯨に飲み込まれたんだ」。「クジラ?」。「船でスペインを出た時だ。鯨はとてつもなく大きかったから 預言者は死ななかった。ヨナは鯨の中で暮らしたんだ。食べ、眠り、種をまいてな」〔『ヨナ書』では、①ヨッパ(現在のテルアビブ)からタルシシ(現在のトルコのタルスス)に向かう船⇒スペインとは無関係、②「主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた」⇒鯨ではない、③魚の中にいたのは「三日三夜」で、その間は主に祈っていた⇒種などまいていない、④主の命で「魚はヨナを陸に吐き出した」⇒一生暮らしたわけではない、となっていて、父の記憶間違いが多い〕。サンティアゴの興味は、船へと移る。「船って何?」。父は船のことをよく知らなかったのか、話題を鯨に戻す。しかし、サンティアゴの心には、船に対する尽きぬ興味がそのまま残った。その時、ロバに乗った地主ドン・オメーロがやって来て、父を呼ぶ。父が帽子をとってペコペコする姿を見たサンティアゴは、何となく不満そうだ(3枚目の写真)〔サンティアゴは良くも悪しくも 自尊心が強い〕。その後、父が1人でマリアの墓に行き、十字架の前に野菊を植えているシーンがある。1人で来たのは、サンティアゴの足の傷がひどいからだ。
  
  
  

父は、地主の家まで出向き、息子に新しい靴が必要なので、地主の主催する祭りでバイオリンを弾く代わりに靴をもらえないかと頼む。しかし、地主は、一晩だけの演奏では 高価な靴は割りに合わない、と断る。しかし、その時、写真屋のトラックが木に衝突して動けないでいるという知らせが入り、父の牛を借りることで、「靴をもらう」合意ができた。次のシーンでは、牛と、集まった村人が、トラックに付けたロープを引いている。中にはサンティアゴもいる(1枚目の写真、右に映っているがドン)〔サンティアゴは裸足のはずだが、父はなぜ人前に出したのだろう? それに、そもそも痛くて歩けないはずだ〕。トラックはなかなか脱出できず、木に再度ぶつかった衝撃で、荷台にあった背景の絵が地面に落ちる。トマスとサンティアゴの前に落ちたのは、偶然、海の波を突っ切って進む小さな帆船の絵だった。この絵を見て、思わず顔を見合わせて微笑む親子(2枚目の写真)〔このシーンのために、サンティアゴを登場させたのであろう〕〔もう1つの疑問は、父の漠然とした話だけで、サンティアゴはどうしてこれが海と船だと分かったのだろう?〕。父は、新しい靴を手にして家に入ってくる。そして、特徴ある帽子を、定位置の帽子掛けにかける(3枚目の写真、矢印は帽子と、帽子をかける棒)。ここに帽子がかかっているということは、父が家に帰っていることを意味する〔重要な伏線〕。父は、靴を近くのイスに乗せると、部屋の中に入って行き、「入口に行って、帽子を持ってきてくれ」と頼む。サンティアゴは、バケツの水に足を入れている〔足のケガのため〕。「今すぐ?」。「ああそうだ」。帽子を取りに行ったサンティアゴは、イスに乗っている新しい靴にすぐ気付き、帽子ではなく、靴を持って帰ってくる。「帽子は持ってきたか?」。父の顔は、もう緩んでいる。サンティアゴ:「ああ神様、トマスに感謝します〔Dios le pague Tomás〕」(4枚目の写真)〔ありがとうの丁寧な表現として、今でも普通に使われている。直訳は、「神様がトマスに報いるでしょう」〕。父は、以前口にしたことをもう一度くり返す。「父さんは、息子に人前で裸足で歩き回るような真似はさせんからな。絶対に」〔そうなると、くり返すが、さっきサンティアゴが人前でトラックのロープを引いていたのは何だったのだろう?〕。「幾らしたの?」。「タダさ。サン・イシドロの祭りで弾くし、牛を貸したからな」。
  
  
  
  

イギリス式庭園の絵を背景幕にして、地主の一族が記念写真を撮影している(1枚目の写真)。真ん中にふんぞり返って座っているのがドン。その真後ろの少年が、小作人を蔑視する長男だ。牛を連れてやってきたサンティアゴがそれを見ている〔牛は、トラックの牽引の時に貸し、それで新しい靴が手に入った。なのに、なぜまた貸すのだろう?〕。写真屋が「じっとして」と言い、「1…」と数え始めた時〔3で撮影〕、いきなりサンティアゴが、「オメーロさん、牛を連れて来ました」と声をかける(2枚目の写真)。カウント中に声をかけた非常識さに怒ったドンは、「今忙しいのが見えんのか、このバカモン! 納屋に入れておけ」と叱る。それを見て、長男が次男にひそひそと話す。サンティアゴが納屋に牛をつないでいると、長男と次男がやって来る。「ここで何やってる、サンティアゴ?」。「オメーロさんに牛を連れて来た」。「何でそれがホントだと分かる」。「牛がいるだろ。見えないのか?」。「でかい態度はやめるんだな。それに、お前みたいに薄汚い奴に、家の周りをうろうろされたくない」(3枚目の写真)。侮辱されたと感じたサンティアゴは、行く手をふさぐ2人に胸でぶつかり、無言で去って行く。小作人の倅(せがれ)のくせに生意気だ、と思った長男は、「ここから出てけ! 二度とそのツラ見せるな!」と怒鳴る。
  
  
  

元はと言えば、撮影中の非常識な声掛けが招いたのだが、長男の言葉に自尊心を傷つけられたサンティアゴは、家に帰ってからも機嫌が悪い。ベッドに横になると、ナイフで木を削り始める。それを見た父が、「どうしたんだ?」と尋ねる。「もし、誰かが僕を殴ったり傷つけようとしたら、庇(かば)ってくれる?」(1枚目の写真)。「なぜ訊く?」。「庇うの、庇わないの?」。「もちろん庇うとも」。「どうやって庇うの?」。「大きなナイフでだ。台所に大きなのがあるだろ」。それを聞いて、サンティアゴは笑みを浮かべる(2枚目の写真)。これは、きわめて重要な伏線だ。
  
  

屋外のシーン。サンティアゴが牛を1頭連れて歩いている。すると、サンティアゴの家に一番近いマクシミリアーノの娘〔幼なじみ〕が、家の前の野原で上半身を裸にして髪を洗っている。サンティアゴは、それに気付くと、木の陰に隠れて娘を見ている(1枚目の写真)。娘は、見られていることに気付くが(2枚目の写真)、叫んだりはせず、そのまま洗い終えて家に入って行く。こっそり後をつけて行ったサンティアゴは、壁の隙間から裸で髪を梳く娘の姿をじっと見ている(3枚目の写真)。唯一、レアンドロ・アルべロの瞳の色がはっきりと分かるシーンだ。気配に気付いたのか、隙間から急に娘の目が覗く。サンティアゴは、大急ぎで逃げ出す。
  
  
  

家に戻ると、父が頭に脂を塗っている。今日は、サン・イシドロの祭りの日で、出かける準備をしていたのだ。父は、息子の姿を見て、「なぜこんなに遅かった? 置いて行こうかと思ったぞ。急げ!」。そして、「来い、髪を とかしてやる」と呼んで、髪に脂を塗ってやる(1枚目の写真)。「息をきらして、どうした? 何があった?」。「何も」〔まさか、逃げてきたとは言えない〕。続いて祭りの場面。父がバイオリンを弾き、ギターやマンドオン、ボンボを演奏している男もいる。その音楽に合わせ、集った多くの村人が踊っている。サンティアゴも楽しんでいたが、いきなり後ろから手で目をふさがれた。振り返って見ると、そこにはさっきの娘がいる。サンティアゴは気恥ずかしい顔をしていたが、娘の笑顔を見て、さっきの行為は許してもらえたと安心し、ニッコリする(2枚目の写真)。「踊る?」と誘われ、他の村人と一緒に踊り始める。いい感じの2人だが、それを、ドンの長男がねたましげに見ている。1曲終わった時、サンティアゴは「すぐ戻るから」と言って、家の裏手に小用に行く。長男は、次男他を連れてサンティアゴに寄って行くと、いきなり背中をドンと突く。びっくりしたサンティアゴが振り向くと、「ここで何してる、意気地なし? 二度とツラを見せるなと言っただろ」(3枚目の写真)。怒りを必死で抑えたサンティアゴは、「僕に構うな」と言って壁を向くが、そこを押されて、長男の鼻に強いパンチをあびせる〔如何なる場合も、先に手を出すのは良くない〕。鼻を押さえて地面に倒れる長男。他の仲間が3人がかりでサンティアゴを押し倒し、足で蹴り始める。騒ぎに気付いた村人が見守る中、ドンが倒れている長男を呼びつけると、長男は、「このクソ野郎が、説明もなく近付いてくると、僕の鼻を殴ったんだ」と嘘をつく。その言葉を信じたドンは、ケガをして地面に倒れているのはサンティアゴの方なのに、「今度、息子に少しでも手を触れたら、わしが自ら鞭打ってやる」と言いい、倒れたままのサンティアゴの脚を思い切り蹴飛ばす。それを見た父はバイオリンの指板の部分をつかんで殴るようにかざすが、それ以上、何もできずに傍観している。頭を起こしたサンティアゴには(4枚目の写真)、その父の姿が目に入ったのであろう。起き上がると、脚をひきずるように、父とは反対側の方に去って行った。
  
  
  
  

サンティアゴが、家に戻って悲嘆にくれていると、そこに酔っ払った父が帰ってくる。そして、サンティアゴの前に座り込むと、酒瓶を差し出し、「さあ、飲め」と言う(1枚目の写真)。そんな父に、ますます失望したサンティアゴは、酒瓶を手で押しのける。父:「もし、手にナイフを持っていたら… バイオリンじゃなくな」。その言葉は、サンティアゴにとっては負け犬の虚勢としか聞こえない。絶望して父の前から立ち去る。向かった先は、野原の真ん中。雷鳴が響き、雨が滝のように降り始める。それでも、サンティアゴは身動き一つせず、雨に打たれ続ける(2枚目の写真)。雨が怒りを静めてくれるのを待つかのように。息子を心配した父は、名前を呼び続ける。そして、ようやく戻って来たサンティアゴを、父は思い切り抱きしめる。毛布にくるまったサンティアゴの前で、父は笑みを浮かべながら、「お前にいい物をやろう」と言って貝殻を渡す。「貝殻は、海の音を忘れない」。貝殻を耳に押し付けて、音を聴こうとするサンティアゴ。目が印象的だ(3枚目の写真)。貝殻を手に眠ってしまったサンティアゴの顔をじっと見つめる父。涙で光った目には、そこはかとない力と決意がみなぎっていた。
  
  
  

翌日、父が屋外に仕事をしていると、そこに地主の配下の1人がやって来て、「ドン・オメーロは言われた。今日の農作業を終えたら、サンティアゴの靴を返しに来いと」。それを聞いた父は、「ドン・オメーロに言ってくれ。自分で来て、息子から取り上げろとな」と つっぱねる。強硬な父の態度に、使いは何も言わずに立ち去る。しばらくして、サンティアゴが牛と耕作地にいると、その様子を遠くからドンの長男と次男が伺っている。そして、父親がいないことを確認すると、前と同じ2人に加え、今度はドン自らもやってきて、サンティアゴを取り囲む。ドンは、「坊主、靴を寄こせ」と命じる(1枚目の写真)。サンティアゴは逃げ出す。4人がそれを追う。ドンはゆっくりと後を付いていく。石だらけの河原まで逃げてきたサンティアゴだが、逃げ場を失い、川の中の石にすがりつくように乗る。そこにドンが到着。「いいか、すぐに靴を寄こすんだ!」。「渡すもんか」(2枚目の写真)「ここまで来て、自分で取ったらどうだ」。ドンは、せせら笑うと、長男と次男に、「奴から、靴を取り上げろ」「家に持って来い」と命じて立ち去る。自分は見ていないから、何をしてもいいというお墨付きだ。ドンが背を向けると、長男がさっそく石をぶつける。10センチはあるので、石の当たった肩はかなり痛かったはずだ。サンティアゴは、石の上で標的になるのはごめんとばかり水に飛び込む。他の4人も一斉に水に飛び込み、サンティアゴを羽交い絞めにして殴りつける。両足から靴を奪い去られた頃には、サンティアゴは気を失って水に浮かんでいた(3枚目の写真)。
  
  
  

父によって家に運び込まれたサンティアゴ。父の顔だけが映されるので、サンティアゴがどんな状態かは分からない。ただ、父の呼びかけに、弱々しく手が伸びて父の頬を触り、すぐに下りていくので、相当ダメージを受けたことは確かだ。それだけに父の怒りは大きい。「お前がいるのは、父さんの部屋だ。もう安心していい」。翌日、ドンが1人でロバに乗って野原をやってくる。彼が並木に近付いた時、木の陰に隠れていた父が、行く手を遮る。「昨日、息子が、農作業中に殴られた。俺は、それが子供同士の喧嘩なのか、あんたが息子の靴を取り上げるためだったか、知りたい」。「そんな質問には答えん。そこをどけ!」。「あんたが、息子の靴を取り上げたのか?」。「お前が、ガキに尊敬の仕方を教えんから、わしが教えてやったんだ!」。この言葉にカッとなった父は、家にある一番大きなナイフで、ドンの腹部を刺し貫く(1枚目の写真)。普通は、父親がここまでの暴力に走るとは思わないので、衝撃のシーンだ。ドンは怪我をしたままロバに乗って去っていったが、父はナイフを根元まで刺したので「殺した」と確信する。殺人罪による「息子との長期の別離」を覚悟した父は、息子と一緒に撮った写真を記念に残してやろうと、写真屋に家の近くまで来てもらう。背景幕の絵は、もちろん、あの海と船の絵だ。写真の構図が決まり、写真屋がフラッシュを掲げてカウントを始める(2枚目の写真)。その時、遠くから馬とロバのいななきと人声が聞こえてくる。警察が父を逮捕しに来たのだ。警官が逮捕を告げると、何も知らされていなかったサンティアゴは、「どうしたの、父さん?」と尋ねる。「オメーロさんを殺したんだ、サンティ。他に途はなかった。信じてくれ」「マリアが望んでいたこととは違ってしまった。だが、俺は、息子にとって、『善良だが臆病な父』であるべきか、『殺人を犯した父』であるべきかを考えた。そして、殺人を犯してでも、『息子の顔を恥じることなく見られる』父であろうと願ったんだ」「俺を許してくれ。お前を一人残していくことを許して欲しい」(3枚目の写真)「俺には、どうすることもできん。次に何が起きるか見当もつかん。だが、お前には、マリアに約束したような強い男になって欲しい」。そして、最後に、「小麦は火曜に刈らねばらん。マクシミリアーノが助けてくれるだろう」と付け加える。サンティアゴが右手を差し出し、父がその手を握りしめる。話を聞いていた写真屋は、深く感銘を受けた様子だ。父の手には、手錠代わりのロープが縛り付けられ、馬に乗った警官に引かれて行った(4枚目の写真)。
  
  
  
  

ここからは、思わぬ形で父と別れることになったサンティアゴの悲嘆ぶりを紹介する。別れた直後、涙で見送るサンティアゴ(1枚目の写真)。サンティアゴは、悪夢の中は、雪の原野をさ迷う。小麦畑では、心労のため、急に意識を失う(2枚目の写真)。改めて起き上がり、父に言われたようにマクシミリアーノの家をノックする。出てきたのは好きになった娘。「ここで、何をしてるの?」。「マクシミリアーノさんに、小麦の刈り入れを手伝ってもらえるか訊きにきたんだ」(3枚目の写真)。その顔は、高熱のため汗にまみれている。娘は、病人のようなサンティアゴを心配する。しかし、娘の父親から出た言葉は、「殺人者の手助けはせん。立ち去れ」だった。
  
  
  

逮捕以来、サンティアゴのことが気になっていた写真屋が、家までやって来る。何度呼んでも返事がない。牛小屋の中まで捜しに行くと、サンティアゴは暗がりで 熱にうかされたように寝ている。「大丈夫か?」。「うん、いいよ」と元気なく答える。「こんなとこで 寝てちゃいかん」。サンティアゴは上半身を起こすと、「写真は持ってるの?」と訊く。「あるとも。君たち2人のだ」。「僕、お金を持ってない」。「お金なんか要らないよ」。「見てもいい?」。「もちろん」(1枚目の写真)。サンティアゴは大事そうに写真を見る。そしてまた、ぐったりと横になる。「太陽が強すぎて… 可哀想な牛たち… 水をやってもらえませんか? それとも父さんを呼ぶか… きっと台所にいます」。高熱による うわ言だ。写真家:「父さんはいない。君の名は?」。「サンティアゴ」「あなたは、海に行ったことありますか?」(2枚目の写真)。「あるよ。私は海のそばで生まれたんだ」。「それって どんなところ?」。その後、写真屋は、サンティアゴを抱き上げて、部屋まで連れて行ってやる。サンティアゴの寝ていた壁には、シンプルな帆船の絵が描かれている(3枚目の写真)〔サンティアゴから船について訊かれたかして、写真家が描いたもの〕。同じ頃、警察で取り調べを受けた父は、署長から、「お前のやったことは重罪だ。運が良くて15年、恐らく25年から30年だろう」と聞かされていた。
  
  
  

映画は、この辺りから複数の場面が平行して描かれる。ここでは、それらをまとめて、内容ごとに紹介していこう。従って、多少の順不同はあり得る。最初に紹介するのは、サンティアゴが父が収監されている警察に行くシーン。サンティアゴは、警察の裏手にある大木に登って行く(1枚目の写真。右の矢印がサンティアゴ、中央の矢印が父の入っている監房の最上部にある光を入れるための開口部)。幹の途中の枝まで登ったサンティアゴは、口笛を鳴らす(2枚目の写真)〔警察と縁のないサンティアゴが、父の入っている監房の開口部を知っているはずはないのだが…〕。口笛に答える形で、棒の先端に載った父の帽子が開口部に現れる(3枚目の写真)〔監房に長さ5メートル以上の棒などあるのだろうか?〕
  
  
  

次が2回目の警察訪問にまつわる一連のシーン。マクシミリアーノに見放されたため、小麦の収穫はできなくなったが、父を心配させないため、小麦の一部を自分で刈り(1枚目の写真)、1束の穂だけ持ち、壁を直接登って監房の開口部に手をかける(2枚目の写真、矢印は父のために持ってきた小麦の穂の束)。サンティアゴが開口部から、「父さん」と呼ぶと、父は、ベッドを開口部の下まで動かし、ベッドの上にイスを置き、そこから、壁に開いた穴に足の先をつっこんで体を持ち上げ、何とかサンティアゴの手を握る(3枚目の写真)。その後、サンティアゴは持ってきた穂の束を床に投げ込む。父はそれを見て、収穫がうまくいったと信じて喜ぶ。
  
  
  

2つ目のテーマは「船」。サンティアゴは、家の近くの野原に、家から持ってきた木材や布を使って、絵で見た帆船と、写真屋が壁に残した絵だけを元に、「船」を想像で作り上げていく(1枚目の写真)。現物を一度も見たこともない人間が、3次元の実物大模型を作るのは至難の業だ。しかし、近くを通りかかった写真屋が野原の真ん中で見たものは、紛う方なき「帆船」だった(2枚目の写真)。写真屋は 出来栄えに感心し、帆の張り方を直してやる。そして、次に会った時、「野原の帆船を見たぞ。美しい船だな」と褒める。「あなたが、牛小屋に描いてくれたから」。「あれより うんと巧くできてる。あと必要なのは名前だけだ。どの船にも名前がついてる。君や私のように。君はサンティアゴ、私はセバスチャンだろ。同じように、船にも名前がある。だけど、女性の名前なんだ。どの船もな」(3枚目の写真)。「女性の名前?」。「そうだ」。最後の1枚は、サンティアゴが船に名前を書いた板をはさんでいる短いシーン。板には「BELEN」と書かれている。例の娘の名前だ。
  
  
  
  

最後の2つは、父に関するパート。ここにはサンティアゴは登場しないが、映画の構成上、非常に重要な部分なので紹介する。最初の1枚目。父が、監房を出て、署長室まで呼び出されると、そこに意外な人物が現れる。殺したと思っていたドンだ。刺してからそれほど時間が経っているとは思えないので、かなり軽傷だったことが分かる。ドンは、開口一番、「ナイフでは、わしのような強靭な雑草は断ち切れん」「わしは、お前の息子サンティアゴが家まで来て、妻と息子達に謝罪することを要求する。お前の牛どもを、わしの納屋に移すこともだ」。「なぜ、そんなことをしなきゃならん」。ここで、署長が口を出す。「お前は、この方を刺し殺した」。「殺した? 生きてるじゃないか」。ドン:「お前の息子サンティアゴは、ずっと一人でいる。近くの荒地は、えらくぶっそうな所だ」(1枚目の写真)。これは、明らかな脅迫だ。そして、それを署長も許容している。この脅しを聞いた父は、ドンに飛びかかろうとして警官に取り押さえられる。署長が、もう一度口を出す。「念のため言っておこう。我々はお前を助けようとしている。これは寛大な申し出だ。もし、受諾すればお前は自由の身だ。拒否すれば、殺人罪で起訴してやる」。しばらく後にある2枚目で、この提案に対する父の回答が明らかになる。その場にはドンはいない。相手は署長だけだ。父:「オメーロさんに伝えていただきたい。もし、息子に何かあったら、取り損ねた命を もぎ取ってやる」(2枚目の写真)。父は、息子に顔向けできないような屈辱的な決断だけは、したくなかった。3枚目は、ドンと署長の屋外での密談。ドン:「トマスの件はどうする?」。「ここには置いておけません。もし、奴をサン・ラファエルに送れば、無罪放免になるでしょう」。「もし、着かなかったら? つまりだな… あんたの部下が誤って奴を殺してしまったら、奴はサン・ラファエルには着かん。写真屋のトラックで奴を送れ。護衛を1人付けてな」(3枚目の写真)〔これほどまでに、警察がひどいとは…〕。4枚目は、警察署を出てトラックに乗り、護衛と一緒にサン・ラファエルに向かう父(4枚目の写真)。写真で、トラックを見送る3人のうち、左から2人目がドン、3人目が長男。矢印は、開いているドアを閉めようとする護衛の手。このトラック、助手席側のドアが半分バカになっていて、なかなか閉まらないのだ〔重要な伏線〕
  
  
  
  

トラックは3人を乗せて出発する(1枚目の写真)。写真屋は、サンティアゴが好きになっているし、逮捕の経緯も知っているので、護衛が「処刑者」だということは知らなくても、父を助けようと決心している。そこで、1本の大木のそばにさしかかった時、ハンドルを急に切って、助手席側のドアが護衛の体重で開くように仕向け、助手を振り落とす。地面に落ちた衝撃で気を失う護衛。写真家は、トラックを降りて護衛を見に行き、「ドアにもたれかかるな、と言うのを忘れてた」と、おどけたように言う。彼が、護衛のポケットから何を取り出したかは分からない(2枚目の写真)。写真屋:「しばらくここで寝ているだろう」「じゃあ、あんたは、あんたの道を行け。私は私の道を行く。サンティアゴによろしく言ってくれ。これは、私が人生でやった最善のことだ。あんたに会えて幸運だった」(3枚目の写真)〔この写真屋、あまりに「いい人」過ぎるような気もするが…〕
  
  
  

父は、家に戻ると、いつも通り、帽子を掛けてから中に入った。一足遅れて家に戻ったサンティアゴは、入口で、帽子が掛かっていることに気付く(1枚目の写真、矢印の先の黒い部分が帽子の一部)。父が家にいると分かった時のサンティアゴの半分泣いて、半分笑った顔は感動的だ(2枚目の写真)。帽子を手にしたまま、サンティアゴが部屋の中に入って行くところで、人物の登場するシーンは終わる。次に映るのは、マリアの墓の前に完全に根付いた野菊。そして、その前に置かれた父と子の写真(3枚目の写真、矢印の下に四方を石を置いて固定されている)。このことは、もう2人にはこの写真が必要なくなったことを意味している。そして最後に海岸に打ち寄せる波、母の写真に映っていたものと似た風景が映されて映画は終る。2人は、アンデスを無事脱出し、今は、「海の見える家」に住んでいるであろう、ことを示唆しつつ。
  
  
  

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